《戦前の広告マン③》宝塚を作った男・小林一三#49
本シリーズの最後は伝説の経営者、小林一三さんを取り上げます。彼は鉄道事業というコア事業に対して、それを広告するための事業を増産していくという、事業と広告がシームレスであり事業間のシナジーを産む構造を作り出すことに成功しています。
おまけとして戦前の広告会社は何をしていたのか、という話も付け加えています。本シリーズのご聴取、ありがとうございました。
文字起こし(自動生成)を読む
おはようございます。人間広告者開店します。直子さん事業と広告の境目って何でしょうね?僕はグラデーションだと思ってんで。すよ広告と事業って、例えば本業があって、それの広告宣伝を兼ねた事業があるとしたら、それは事業と言えるのか、広告なのかちょっと一例を挙げますね。ミシュラン。何の会社ですか?タイヤはい。ご存知のように世界的タイヤメーカーですね。でも、日本での知名度はどちらかというと。グルメ評価。そうですね。
ミシュラン三ツ星などで知られてますよね。もはやレストランを格付けしてガイドブックを売る会社だと思われている可能性もあります。しかし、実態としてはタイヤメーカーですよね?はい。ではなんでタイヤメーカーがミシュランガイドという事業を行っているんでしょうか?ユーザーの走行距離を増やす。パーフェク。ト。よかったパーフェクト要するにたくさん車に乗ってほしいからです。もっと具体的に言えば、タイヤをすり減らしてほしいからです。
つまり、本業のための事業になっている本業のための広告的事業になっているというわけですね。で事業と広告を同義だと考えた時に、我々広告会社の考えるべきことも一気に広がってきてワクワクしませんか?何も手法はテレビ CM みたいなマスメディアで情報を伝達することだけではないわけですよ。はい。広告的な事業を提案することも、我々のスコープだってことですよね。うん、そうするといろんなことを考えられて楽しいですよね。
はいということで、本日はすごいぜ。戦前のプランナーの第 3回最終回です。この企画は、広告黎明期の企画マンたちの工夫と情熱を見て学んでいこうということでしたね。はい、勉強になって。ますかなってますよかった。ですで最初の話に戻るんですけども、ミシュランのこの作戦は昔勉強したドラッカーが言っていた。マーケティングとは顧客の創造であるということの体現ですよね。まさにこれはマーケティングの歴史の会で説明しました。
はい、おかげさまでとても人気会になっておりますで、この時に。顧客の創造という意味での日本での先駆者として紹介した人物、覚えてますか?マーケティングの歴史界ではいちらっと出てきた。はい、右から左へ今ダッシュで。いや、もう名前は覚えられない。ですが、ですが、長子さんがかつて好きだったという歌って踊れるあれ?ホスト違。う違うホストホスト界も人気なので、ぜひお聞きください。歌って踊れる歌劇団がありましたよね。
あ、宝塚ですかはいとい。うことは?ああ、小林一三だ。ピンポンそうです。小林一三さんです。あ、そうでした。そうでした。思い出、急激に思。い出した今はい。で彼の功績の復習も兼ねて、事業こそが広告であるということを説明していきたいと思いま。す。小林一三さんの事業の核っていうのは、あくまでも阪急電鉄なんですよ。で交通事業の売り上げというのは当然、利用者の数かける乗る回数で決まっていきますよね。はいでそのどちらも多角的な事業で解決していったっていうのが小林さんのすごいところでした。
阪急電鉄は阪神と違って郊外に伸びる電車でしたね。したがって、彼がまず行ったことは沿線の宅地開発うんまず乗客を自ら作っていったということですね。住宅ローンを開発したのも彼でしたねはいでこの時。郊外の広大な土地を獲得していった強みを生かして狭くて環境が悪化する都市部との違いを大いにアピールしたということですね。郊外においで水も山も森も綺麗だよ。庭は広いしっていう話です。そして次に手をつけたのは、乗る回数を増やすという作戦なんですが、回数を増加させるためには、電車を利用する目的をたくさん作らなければいけませんねというのは小林さんの発想で。
まず、日本で三番目の動物園を作りました。で、宝塚温泉にヘルスセンターを作って、そのアトラクションの一つとして宝塚歌唱隊を結成しました。言うまでもなく、これが今の。宝塚歌劇団はい。はいです。この時から始まりました。ただ、この時点ではまだ阪急電鉄の売り上げは芳しくありませんでした。そこで小林さんが出向した新聞広告のコピーは綺麗で早くてガラ空きです。これ、日本初の自虐広告かもしれません。はい。で次にこれがまあ決定打となるわけですけれども、日本初のターミナルデパートとして梅田に阪急百貨店を開業させました。
はいで、この開業に合わせた新聞広告でも、小林さんはまだ品物が揃っていませんがと正直に書いているのがとても面白い。ちなみに全部コピーをご自身で書?いていらっしゃいますはい。でここにいたってようやく阪急電鉄は大ブレイクして今に至るわけですけれども、電鉄事業を中心にして、その乗況客数と乗る回数を増やすための事業を多角的に展開していったというふうに見えませんか?これ見。えます。ですよね。でさらに小林さんは広告制作自体の才能もずば抜けていたということですね。
で、それぞれ単体の事業も成功させているわけなので、まあもはやパーフェクトヒューマンだったな。というふうには思いますで、以前言った通り、この事業モデルって、あらゆる鉄道会社が採用して成功させたんですよ。で、東京で言えば、西武、東武、東急、京急、小田急、京王形成。これらの鉄道会社はすべて都市と郊外結んで沿線を活性化させていくっていう手法をとってます。アトレーとかルミネのことを考えれば、ジェーアールもほぼ同じ手法を採用していると言っていいかもしれませんね。
単なる鉄道会社のビジネスモデルという域を超えて日本の独特な都市形成のモデルを作ったのも、この小林一三モデルと言っていいかもしれないなというふうに思っております。はいまあ、いずれにしろ事業も広告なんだよっていうことは、あるいはこの精神はぜひ我々広告パーソンも心に留めておきたいなというふうに思います。さて、このシリーズの最後にここまで全く出てこなかった明治大正の広告会社について。少し言及したいと思いますはい。
はい。ドキドキしますね。だいたい 1900年前後に雨後の竹の子のように広告会社が相次いで立ち上がったようですで前にも言った通り、基本的には新聞広告の枠の取り次ぎ、つまり枠を買って広告主に売るというのが主な業務はいなので、現在の広告会社の業務とは全く異なります。でも、それでは立ち浮かんということで立ち上がった人物がいます。会社の名前は広告社。という名前の広告者。まあ非常に複雑なんですけど、広告者という広告者です。
1888年の設立で立ち上げた方は、湯沢清二さんという方です。ちなみに広告者の広告は旧字体の方の広告ですね。黄色が入る方ってこ?とそうです。そういうことです。はい。ちなみに現時点で創業 136年の老舗広告会社です。ところでですね、ちょっと関係ない話なんですけど。アドバタイズメントっていう言葉を、はい、広告に訳した人が誰か知ってますか?英語を日本語にするといえば、はい夏目漱石ですか?そうです。福沢諭吉で。
すさすがに嘘って思いましたはいはい福。沢諭吉です。慶應義塾では先生といえば福沢諭吉先生。ただ一人を指すそうです。へえ。ちなみに僕は慶応に落ちております。ありがとうござ。います話を戻しまして、湯沢さんの実績は広告の曙っていう本に詳しいので、興味ある方はぜひ見ていただきたいんですけども。広告社は新聞取り次ぎ事業をビジネスモデルとした最初の航行会社と言われてます。ちょっと航行会社、航行会社でややこしくなっておりますが、ニュアンスで聞き取ってくださいね。
はいですが、広告業界全体が世間からも新聞社からも非常に疎まれていたらしいんですよ。当時。なんででしょ?う商業主義の権化みたいなイメージがまずついていたで、それによって世間からかなり疎まれていたのに加えて、そもそも新聞社自体が広告に頼るビジネスモデルではなかったうんので、広告獲得に積極的ではなかった。適当に扱われていたということが背景にあるそうです。はい、しかも前金前金を払わされていたそうです。当時はで、湯沢さんはそんなところで甘んじる人ではなかったんですね。
彼が最初に行ったこと、それは自社広告です。大事ですね広。告者の広告です。うん、今やんないです。よねやんないですね。広。告パーソンというのは黒子であるべきみたいな、そういう思想あるじゃないですか?湯沢さんはそうじゃなかったんですね。はい。広告というものを事業として、あるいは文化として主役にしようという心構えがあったということだったと思います。で、面白いのはその後なんですけれども。日本ビールの新聞広告を獲得するんですけれども、すぐさまに我が広告者は日本ビールの広告を獲得した一流会社であるという自社広告を出稿したらしいですよ。
結。構ユーザーさん、あれですね、俺が俺が。俺が俺が自己顕示欲ならぬ自社顕示欲が激しい方ですね。まあ、今ではありえないですよね。広告会社やっぱ黒子化してるんでね、はい。そして、メディア開発にも積極的に乗り出します。現在。駅のホームに鏡あるじゃないですか?ありますね。鏡の下に広告ありますよね?あ、イメージはあります。あの媒体を作り出したのはユーザーさん。です。地味な媒体ですね。ただ、発想はやっぱり豊かじゃないですかというのは人々が思わず見てしまうものに広告を貼り付けるっていう発想ですよね。
うまいですよね。次に野立て広告を思いつきます。野立て広告ってわかります。今でもたまに使う言葉ですけど。屋外広告の 1種なんですけれども、この場合は川崎六号の梨畑の中に巨大な看板を出。しました。待ってください。すごい地味な媒体ばっかりですね。頑張ってるんですよ、皆さ。んでも地方とかに行くと大きい看板ありますよね?ありますよね?よく言われるのは、新幹線から見た時に 727 が目立ちますけど、まあああいったものは野立て広告と言われるもので、要するに。
公共交通機関から見る広告ということになりますね。はいでこれ大評判になりました。広告者が大きく注目されたのは、浅草の凌雲閣の広告行って扱いを獲得したことなんですようん凌雲閣ってわかります中。華料理屋さんですか?関東大震災で浅草で崩落したことで有名な凌雲閣知りませんか?ああ、立ち上げないで。す調べるとすぐ出てきます。関東大震災凌雲閣で調べると。でこれ言ってみればテーマパークみたいなもんなんですけども、その時の広告がまたこれすごくて。
凌雲閣の開業告知と同時に、この凌雲閣の広告を言ってで扱っているのは広告者だからねという文言が入ってるんですよ。すごいアピールだなぁ。クライアントの広告を利用した企業広告もうしたたかというか、大胆というか、凄まじい胆力を感じますよね。よくクライアントもオッケーしたなっていう。これぞって感じはしますね。そうなんですよ。人の土俵で。自分の得を取る感じがそう。本来、企業がしてほしいことですもんね。ここまで見てきて、お分かりのようにユーザーさんは広告業というものの事業領域の拡張と、それから広告業の地位向上、使命と感じていたんだと思うんですよ。
だから、事あるごとに自社アピールをしたということですね。で、その象徴がテーマ連合広告と言われる企画で。先に広告を企画してから、複数の広告主から参加を募る形式のものですお。お協賛だ。はい。今も広告企画っていうのは新聞にありますよね。あれの走りです。はいというか、あれを開発したのはユーザーさんです。で、これは何かといえば、企画は広告主取、次は広告会社という不文律を靴会社ということになりますよね。広告会社は企画からやるぞということになります。
で、現在、我々が広告に関するいろんな企画の段階からクライアントの皆様からお仕事いただけているのは、湯沢さんのおかげと言っても過言ではありません。ありがとうございます。で 1930年に湯沢さんは日本新聞協会から広告発展の功績を称えられて表彰を受けているんですよへ。え新聞協会広告にあまり。ポジティブじゃなかったの?にそうなんです。広告を適当に扱っていたあの新聞社からこういう賞をもらえた。つまり、彼の人生の到達点ですよね。
ここでうん、広告会社を初めて社会的地位を認められたとはい言っていいでしょう。つまり、我々は毎日湯沢さんに手を合わせたいと思います。ありがとうござい。ます、ありがとうございます。さて、ここまでの話に電通と博報堂いわゆる伝白が登場していませんね。しばらくのち昭和の時代になると、今の広告者、それと電通博報堂この三社で広告代理業取扱高の 1/2 を占めることになります。したがって、戦前から両者とも超重要なプレイヤーであって、各社実は執事とか当初の目的が異なるところも実に興味深いですよ。
博報堂は?実は新聞の取り次ぎではなく、雑誌広告の取り次ぎから始まった会。社なんで?すなので老舗書店っぽいかっこいい社名ですよね。ああ、確かにそうですねここ。から来ているわけです。そして電通は広告ではなく、通信社が母体です。はい、通信社経営の原資獲得のために広告の取り扱いを始めたというわけですね。だから電通の元の名前は日本電報通信社です。はい、これが縮まって電通というように、電波をとっても非常に面白い歴史が転がっているんですが、はいそのお話は非常に長くなるので、またいつかということではい今回締めたいと思います。
3回通じてどうでしたかなん?だろう。一個の目的のために物事って広がっていくんだなっていうのがすごい思いました。なんか他の。一番最初にを伺った片岡さんも最初は広告業に閉じてたけど、最終的にタバコ歯磨きでしたっけ?を作ったりとかなんかこれ何かを達成しようとした時、あ、これも必要だ。あれも必要だってなるのが事業への昇華なんだなっていうのが全体通じて思ったのと、私が推しているホストさんたちも。の経営者さんたちも皆さんそういうことになってて、今ほうまあホストグループって結構飲食店出勤前後に行く飲食店だから夜遅くまでやってる飲食店とかに事業展開するケースが多かったんですけど、なるほど。
最近ではアパレルやったりとか、あとは地方にいて、なかなかフスクラブ行けない人にもお金をもらえるようなソーシャルの発信の場を独自開発したりとか。ほうほう。そういう部分もすごいホストって面白いなって思いました。小林一三モデルってことです。よね、そうですね。で最終的には直接会いに行きたいって思わせる。ああ、だから本事業のための事業拡張、それが広告にもなっているみたいな状態をホストクラブも作り出して。いるとそうですね。
で、なんならホストをアイドルにするとか、今後の事業展開とかを考えられてて。最後一番お金をその日設けた人が歌うみたいなのが、もともとシステムであるので、ボイストレーニングをさせて一般に出しても恥ずかしくないところまで育ててとか、あといろんなビジネスを見ている経営者の方が多いので、そういう視点でもぜひホストのユーチューブをご覧ください。はい。今回の話はホストのユーチューブを見ようでしたね。明治大正期のホストはどうしていたかでしたっけ?
それでいきましょうとい。うことで今回もお疲れ様でしたありが。とうございます。よろしければ、ポッドキャストのフォローや高評価、それにエックスのフォローもお願いします。では、本日もお仕事お疲れ様でした。またね。
この文字起こしはSpotifyの自動生成によるものです。固有名詞の誤変換を含む場合があります。