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#11 本は誤読すべきである 〜みずき書林で本の未来を考える(後編)

前回に引き続き、みずき書林代表の岡田林太郎さんをお迎えして、本の未来について考えます。読書は作者の意図や意味がとれるかどうかに重きが置かれがちですが、人間的な背景や余白が感じられる文章は逆に誤読や誤釈こそが珠玉の読書体験なのでは?という妄想実験を繰り広げます。尚、何の疑問も持たれなかったと思いますが「誤釈」などという熟語は存在しませんてへぺろ。

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人間ラジオ雨です。一つです。りんたろうです。あまだいる誰?ただいますみません。すずきですね。僕から言わせれば、この二人がまだいます。間違いない。ということで、まあ前回はなのでえっとほんとは情報なのか、それともそのプラスアルファ?その人の人格を纏ったものなのか?それによって我々はどういう影響を受けているのかっていうことをちょっとかいつまんで。かいつまんでワイナイナなかなかとじっくりじっくりと話しましたけど、なんかそこの解像度ちょっとあげたいなと思っていて。

例えば、そのもう今を生きている人の書籍を読むと言うことを仮にあったとするじゃない。まあ割とあるよね。その時はその人について調べることが出来る。どういう人なのか、どういう系譜を得て今あるのか、どういう書籍が今まで書いて来たのかということは、その中でここに位置づけられるんだなって言う前提が作れるから、そういう前提で読めばいいっていうことになってくると思うんですよ。そのなんかわかりやすいなと思ったんだけど、今を生きていない人の本を読む。

時っていうのは、もしかして情報だけだと誤読をするんじゃないかっていう印象を受けたさっきの話。本来であれば、その時代性とかその時代性におけるその人の主張とか、人格とか、あるいは生い立ちみたいなものも含めて、それを摂取しないと正確な理解がもしかしてできないからこそ、それは箇条書きの情報ではなくて、因果関係がしっかりしている文学という名のまあ、文書センテンスごとの関係性がわかるもので、読むことによって、それが理解初めて理解できるんじゃないかなっていうふうに僕は。

ちょっと読み解いてみたんだけど、そういうことかしら?たぶんそうだと思います。何をやってるのかというと、結局読書体験、読書は僕は著者と対話していると思う。そしてそれはえっと大和って言うと、その著者だけと喋ってるように聞こえるんだけど、実は読書って当たり前だけど、何十人、何百人という著書ブーム。ちょっと自分の中でリンクが作られていくと、例えばギリシャローマのせねかという哲学者と誰でもいいんですけどもえっと。

夜と霧を描いたフランクっていう人だったりが、自分の中でつながる自分がつながりを見つけてあげるこの喜びみたいなものは、情報だけだとちょっと生まれにくいんじゃないかなと思っていて。だからそういうえっと読書体験にはえっと複数の著者が自分を中心にしてええと、どんな職種のように伸びていく。彼らがつなが自分の中で繋がっていくみたいな自分を中心にした人物を感じとかが出来ていくで、自分の中のまあ言ってしまえば知的体系のようなものが自分なりに作れると。

人間関係ができる。これがまあ楽しい。うん、ちょっと抽象化して行くと、いい文章とは何かっていう話になってくる気がするんですよ。まあ我々。例えば、広告代理店の企画書におけるいい文章っていうのはわれわれの主張。どれだけ簡潔に、しかも高ボールドに伝えられるかみたいなことになってくる。だけど、でもまあ、文学なり書籍における文章っていうのは、もしかしていかに自分の人間性をそこに込められるかみたいなことだったりするのかしらっていう。

要するに読んでる人がどれだけ?その人の人間としての余白を感じられるか、背景を感じられるかみたいなことが結構重要なんじゃないと思ってるし、もしかしてこの2020年台にも生き残っている書籍っていうのはそういうものがあったから、残っていて情報だけの書籍っていうのは、もうすでにあの情報としてのこっていない。つまり文学として本としては残ってないんじゃないかしらっていうこと言うのはちょっと思っており、少なくとも僕にとっていい本は、そう人たちが今言った通りで、著者の顔が見える方が。

例えばアンネフランクの日記って、なんでそんなもん読むんだろうと人の書いた日記だよ。毎日何があったとか書いてあっても、はっきり言えばむちゃくちゃどうでもいいよねと、なのに、なぜそれを読むんだろうということを考えたときに、やっぱりそれは情報だけではない何かっていうのがあって、その子に触れるとか、この人が今ああいう状態のなかで死んでしまったということを我々情報と知っていて、それを踏まえてその人と対話をしている。

もう死んでしまった女の子とが何考えてたのかとか。例えばその日、今日この収録している日ノ 70何年前に彼女何してたのかとかいうことを考えるとリンクができると、まさにさっき言ったように、あの子が例えばええ、その隠れ家でなんかやってたご飯食べた時に自分たちもご飯食べながら喋ってるみたいな。そういうことってやっぱ思い出に残るし、印象に残ると自分だけのオリジナルの体験になる。そういうのがやっぱり大事だなと僕は思っているん?

なんか同じことを伝えようとしても、人によって言い方が変わるんだけれども、そこにちょっとなんか人格が宿っているのかなっていう感じがしていて。なぜその人がその主張するんだろう?っていうことが仮にビジネス書であっても、背景を読み解いて透けて見えることによって納得感が全く変わってくるんじゃないかとか、あるいはそこに書かれている情報以上の何かが摂取できて、自分の人生に影響を与えるんじゃないか?なんかそんなことを今思いましたね、うん。

例えばその人がいくつでどこで生まれて性別はないみたいな。そういうことって結構大事なことで、特に例えば近現代史とか戦争前の戦争の是非とか、そういうことを論じるホンで多分寿司も好きだと思うんですけれども、そういう時にはやっぱその人の年齢ってめちゃくちゃ気にならない。すごい分かりやすく言えば、その人が 70 歳とか80 歳の方が書いているのか、20代の新進気鋭が書いているのか?みたいなことで、その主張みたいなものには、当然その時代のあれがくっついているわけで、風潮とか気分のようなものが、あるいはその人が受けてきたジェンダー観とか、倫理観とかそこまでこみでやっぱり摂取するには時間と労力をやっぱかけないと、そういうものに。

えっと、リーチすることはできない。と思っちゃうんで何でそんなに急ぐんだと思って、この今、最近の風潮に、対してやっぱりうん。まあそこの価値を感じてないからだよね。うん、多分てか価値を感じていうか、それをそうするべきという概念がそもそも存在してないっていうそうだから、さっきさっき言った通りで、これを解雇的に昔はあったけど、今失われたって言い方すると結局老人の繰り言とかいう話になっちゃうので、全く新しい。

リフレーミング。や結局そうなっちゃうのみたいな話。リフレーミング、ラジオ、ラジオになりつつあるね。これはね。でもやっぱりそのそうこういう話だと、どうしても懐古的に解釈されちゃうと、結局その本っていいよねっていうのが本当さっき言ったように伝統芸能みたいなものを守ってるみたいに言われ方をすることが多くて。でも、まったくそうではない新しい価値を産むことに出版界は失敗し続けているし、今のところそういう非常に贅沢な時間の使いかたとか、ええ、人生そのものの使いかた。

みたいなものを、もう一回というそこってすごくすごく楽しいことなんだよと質問を変えると、僕は中田、あっちゃんの youtube 大学を全話見てるのね。全話見尽くしたことなんだけど、今の話で言うと、彼は情報だけをえっと箇条書き化して紹介しているかっていうと、そんなことはなくて、すごい頭いい人だからえっと。じゃあ昔の描いた人の本です。となると、その時代背景からちゃんと読み解き、その人の生い立ちまでよちゃんと深めた上で、この書籍がどういうその人にとって位置づけなのかっていうことを紹介した上で、その人の主張をわかりやすく伝えるっていう。

そういう順番で伝えてくれるわけですよ。だから割と今言った話もクリアできてんじゃないっていう怪我しちゃったんですよ。ああいうまあ、いわゆるようやく動画みたいなものでもクリアできている面ないっていう気はする。だから今いってんのはあくまでただ今の話で。この後、そう、本当に水に切って時間と労力をかけて、そういうええ、ようやくに生涯を捧げるというか、本当に人格を感じて、あっちゃん、すげーとあっちゃんと言う人格そのものが本当に敬意を払うに値するええクリエイターであり、オリジネーターになっていく上手はなりませんーとあの本という形式がありません。

ということは自分あり得るとうん、それはえっと、やっぱりその大事なことは僕にとって大事なことは?その人の人柄とか繰り返しになりますけど、そういうものが込められたコンテンツはやっぱとっても面白いよねって話なので、それが今のところは本っていうのはそこで宿っているよと。でも、もしかしたら動画編集とかええ、そういうところに神の本を執筆するよりもいいから楽だし、あの伝わるからっていうふうになってくれば、本も止めを刺されて終わっていくと思うし、それはそれで別に構わないと思っていること。

目的は紙に印字された文字にこだわるということではなくて、あくまでも情報に人間性が宿るのであれば、どういう手段媒体でもいいよっていう話になってくるよね。その場合、うんうん。いいんじゃない?僕の商売あがったりになるけどいいんじゃない?それでいやでもいいんじゃない?倫太郎もその時は違うことをやり始めればいいんじゃない?と思って、要するに目的が変わるじゃんっていう媒体にこだわるのか、そうじゃない。人間性を宿らせる情報の伝達にこだわるんだったら、そこに新しい商売がまた。

今やっているえっと書籍をそれを動画化することも。もしかしたら音声化することによって、いろんな手段を取れる。その場合、そううん。本質的には僕はそれでいいと思ってるし、そういう意味で今のところまだ本というものには有用性があると信じていたから、それってなんでなんですかね。その人格を宿らせるために必要な条件が。各接種二話時間かかるんじゃないかなと。本当にその大切なものが人間性親とらせるだけじゃなくて、読み取るってこともセットで、なんか人間性を宿ったコンテンツって出来上がってるのかなあって、なんか考えたことないことを思いました。

どうなんだろう記憶として、例えばこれ 10年後ぐらいにこれ同じ話、同じメンバーで集まってやった時に、いや、違う。年後に一冊の本を読んで、あの戻って来て対話をするとかっていうことがやった時に、やっぱり僕もそうだし、みんなもそうだと思うんだけど、時間をかけて摂取したものって、やっぱ記憶に残るじゃない?当然全然違う。話していい。うん、僕は思ったのはその人格が宿ったその人なりの。情報の書き方その人なりのいろんな背景を背負って書き方になってくると、まあ独特の書き方になってくる。

と、つまり同じ情報でも人によって全然違うものがバリエーションがあるってどういうことかと思ったんだけども、読み手にとっての誤読が生まれるからじゃないかってちょっと思ったんです。誤読誤読これはいい意味での誤読解釈の違いみたいなそうえーと言う情報 01234 の書き方で、まあ著者が変わって書いたとして、その 1234 どれに触れるかによって、自分が得るものも変わっていくってじゃない?まあ、ここにバリエーションがあるよねとで、さらにその123 はどれかを読んだところで、その著者が言いたかったことを100% 伝わるわけじゃないじゃない。

どうしてもえっと読みながら解釈をしてしまったりとか。読みきれない部分が出てきて、そこにずれが生じるじゃないですか。そこが僕はなんか本能もしかして面白さなんじゃないの?っていう誤読こそが本の面白さみたいなこと。そうそうだから、たぶんそれがさっき言った対話ということだと思うし、こうやってしゃべって。でもこうお互いずれていくという感覚があったりわかるわかるみたいな感覚があったり、まさに同じことば読書ってやってると思うので、だから著者が言いたかったことを100 %丸毛することが。

いい読書体験だとやっぱり思わない、うん、大事なのはそれで自分が考えて俺はこう思ったと僕だけのオリジナルな会社がこれでねって言える。ことがすごく大事なんじゃない?その体験の素晴らしさって、著者が言いたかったことの 50%しか理解できない可能性もあるんだけれども、著者の言いたかった事に50%加えて 150%に理解する人も増えるいるんじゃないかっていう気がしていて、なんか大げさの言い方すると、それが人類の発展じゃないっていう感じなんか前時代の人から受け継がれているものがちょっとずつ孤独されていて、パワーアップして言ってるっていうのがあの。

今のこの文明なんじゃないってちょっと思ってこれ 100 %のまま受け継いで言ったら何か新しいこと全然生まれないよねっていう気がそうそう。多分、学問のはって、まさにそうなんだよね、うん。今最近だとジェンダー論とか分かりやすいと思うけど、70年代、80 年代とかね。そんな言葉さえなくてみたいな。それがまあはち年くらい生まれてきて、今のジェンダーとかフェミニズムってもう感覚が全然。その 90年代と比べても全然変わってきてると、lgbtqの問題とか、あの頃はもう考えもしなかったような問題が出てきて。

だから、あの頃の少年漫画とか読むと、もうそのポリコレ的にはもう完璧アウトもたくさんある。あれってやっぱりそのさっき言った通り、あの頃の解釈に今の解釈をどんどんのっけて行くことで、やっぱだんだんだんだんこの山が高くなっていくみたいなことが起こっているで、まさにそれが文明の発展というか、文化の塾して行くということなんでしょう。大げさに言えば、削ぎ落とされた情報だけだと、まあ 100% 伝えたいことがこうシンプルに集約されて100 %伝わるって言う結果でしかないと。

いうことは、著者がその人間性とか人格をそこに込めることによって、余白を作って、いろんな解釈の余地をあくまで残すことに、より新しい解釈とか発展的な解釈が生まれてくるっていうことになるから、もしかしてだけど、phone の一番の紅葉はその余白を作ることになるんじゃないかっていう余白そう。僕の言い方でもそう議論の余地、議論を生む本感想を引き出す人も、そういう余白とか。予知みたいなものがある本箇条書きっていうのはそれ内の人たちが言った通り、もらったものを次に受け渡して行くだけでっていうならざるを得ないので、それ以上のものってやっぱ余白だったり、あるいはそのは切れば脇の緩さだったり、そういうものをツッコミどころだったり、そういうのがあって、人間が出てきている以上、そこにつっこみ入れて行く面白さ。

結果的にはそれが次の本を生んでいくとか、考えを発展させていくみたいな書き手はそれ狙ってやってるんですかね。その余白を残してやろうっていうどういう気持ちで書いてるんやろうって狙ってないでしょう?本人としては 100%。俺はこれって思ったものを書いているでしょうし、百パーと言わないまで、ただ、そこにはどうしても脇のゆるい部分とか、突っ込みどころが出てくるっていう。なんか20の誤解というのが、ある気がしていて、要するに頭の中にあるものを文字として書き出す。

そしてそれを文字を読んだ人が、もう一回の中にインプットするっていうと、ここに。二回解釈の幅が出て来るじゃない。つまりまず著者は自分の思ったことをそのまま丁寧に文字にできているかっていう問題があるよね。まずできないよね。絶対できないじゃんでここでまず余白が一つ目の余白が終わります。で、今度読む人がええ書いてある情報そのまま100 %インプットできるかっていうと、絶対そんなことはないから、ここにも百が生まれますっていう20 の余白があるのがなんか文学本なんじゃないかなという感じがまずしたってねぇに情報を摂取して、そこから得られたインスピレーションで。

自分の人生をより良くしたいとか、ビジネスに応用して行きたいと思っている人は結果としてだよ。情報だけを読むのではなくて、余白のあり得る文章をしっかり読んだほうがいいんじゃないかっていう結論になる気がするね。逆にちゃんと時間をかけて、その余白において、その著者と対話することによって生まれる自分なりのプラスアルファを生み出しながら読んでいく読書体験っていうのが結果としてタメになってるんじゃないっていうこと?

がなんか一つの結論かなって思ったんだけど、結論づけるのジョーズ。ごめんなさい。それでいいと思います。みずき書林の代表からお褒めの言葉やりましたけど、それどうです?あでもいい結論だなと。以上怖いからお褒めの言葉をいや、あのさっきの結論とどうつながるか分かんないです。分かんないんですけど、わからんのですけど、無理やり無理やり京都の人のふりしようとしたら分かんないですけど、ずっと考えてたことがあって。なんかその本の中ですごい楽しい瞬間の中に、その自分とつながる瞬間があるってのはすごく面白いとおっしゃったじゃないですか。

なんか今風の言葉で言うと伏線探しが凄い面白いんかなと思って。言っててでなんか若者は本を読まないで年配の方の方が本好きみたいなの。もしその見つける伏線が、自分の中にこうつながる点がいっぱいあるっていうのが、年配の方で私とか読んでも自分の中でそんな知識とかあるわけじゃないから。だから伏線も見つけられずに面白くないんやろうなあって思ってたんですけど。でも、やっぱりその小説読んで共感するとかあるじゃないですか。

うん。それってそう伏線というほどきれいに決まりきってなくても、やっぱり自分の中にある感情とある他人の描いた感情が吹っ飛つながるその時に快感がある。まあ、これが感動と呼ばれるものなんでしょうけど、それはあると思うし、それは年取ってるから、そのなんか引き出しが増えるとかって話でもなくて。恋愛、小説とか、例えばに共感するのは、若い人はその感情を見てもぐっとこう。あの持ってるから共感すると思うし。うん。たぶんその辺が読書の面白さの入り口にはなると思うし、こんなに、小説ばっかりがベストセラーになると、今まあ新書とか覗くとしてもある種の小説みたいなのを受けたり、評価されたりするとやっぱり感情がリンクする共感するみたいな力がある。

こればっかりは、そのそういう人の表現。映画とか音楽とか、小説とかそういったものだけが出来る今のところ、何かスペシャルな感情を動かす。ということなんじゃないかなと。いまでも面白いね。あの書籍は音楽よりなんじゃないかっていう会社結構面白いなと思っていて。音楽はまあ、正直、ほぼほぼ木手に委ねてるじゃん。これをどう聞くか、どういう感情ですか?って言われているじゃないで。Phoneは文字情報だから、あの丁寧にあの情報を書き留めているかのように思えるけど、実はかなりゆだねられている部分があって、そこにこそバッファーを生んでるんだなって言う。

感じがあったりとかね。そうだから、これもかなり古い解釈ですけど、もうあの昔の文芸理論に作者の死と言うやつがあるじゃないですか。で、これは今までそれまでの弓っていうのは、著者は何が言いたかったんだろうって、いわゆる作家論をやると著者が言いたかったことは何でしょう?…

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